自分の価値を失うということ

この社会に暮らす人は誰しも自分が提供できる価値と引き換えに賃金を得ることで生活しているのだけど自分なりに思うところがあったので覚書として書記しておく。

 

まず自分が会社なりなんなりと契約を結んだとして、それ相応な価値を提供することは義務なんだけど会社としても価値を得ることでその代価としてその人に対して賃金を払うことは同様に義務なんだよね。

これって当たり前なんだけど本来であれば危機感の上にこそ成り立つことなんだと自覚する必要があるんだと思う。

 

そもそもおれのような好きなことを仕事にしている人は特に重要なことで、自分ができることの結果を価値として提供すること、代価としての賃金得ること、自分自身のやりがいというものを常に天秤にかけているということは意識できているようで意識できていないことが多いと思う。

 

おれのような人たちは進んで終身雇用という安定(もしくは安定を得ているという幻想)を放棄して(もしくは得ることができなくて)今の生活を営んでいる人が多いのかもしれないが、そうじゃない人は終身雇用という安定(という幻想に気が付かない場合もあるけど)を担保しつつもやりがいと価値とそれ相応の賃金という奇跡的なバランスを取っている人だと思うのでそういう人はこれから先は読まなくていいと思います。

 

人は多かれ少なかれ色んなことを天秤にかけて奇跡的なバランスの上で生活しているというのを自分以外の人にも目を向けるべきだと思う。

こう考えることって周囲への思いやりにも繋がるかもしれないが、他人のことを考えるより自分のことを考えるのが先なので、ふと周りを見渡してみて自分がバランスを保てているどうかというのは適時観察すべきなんじゃないだろうか。

きっとこのバランスが崩れたときは自分の無能さが際立っているか過剰に評価されているか自分が我慢しているかのいずれか。

 

このバランスを保つためにはどこかが凹んだらどこかでカバーしなければいけないという単純な話で、特に年齢とか経年で変化するような事象については自分ではどうにもならない要素なので、そういうもの以外でバランスを取らなければいけないことは自明。これらの要素を無視しているときは意識的か無意識的かに限らず自分の中で他の要素でバランスを取っているということになる。

 

でもバランスを取っているという事実に人は驚くほど無頓着なんだ自分が意識していない部分がポロッと口に出す言葉に現れていることがある。

 

つまり何が言いたいかというと代価をもらって自分の価値を元に生活している人って何に関しても言い訳できないってこと。

(先天的にも後天的にもどうにもならない要素については自分としては何も言えないし言うべきじゃないので置いておいて)

言い訳しているっていうことは自分で認めているか認めていないかで、そうでない場合は発展途上なんだろうけど発展しようとしている人はそもそもそんなこと口に出さない。

 

口に出しているっていうことはつまりどういう状態なんでしょうねって振り返るとまだ次に繋がるんだと思いました。